ゲームスパーク、ワニウエイブ氏の記事について

 先日から話題となってるゲームスパークから出たワニウエイブ氏のこの記事(

https://www.gamespark.jp/article/2021/07/25/110634.html?amp=twitter

)だが、一方で数多くの批判も寄せられている。そのほとんどは「ゲーム批評サイトが政治性の強い主張を載せるべきではない」という旨のもので、それ自体に正当性は感じられない。ゲーマーゲート事件やラストオブアス1,2の例を挙げるまでもなく既にゲーム業界はそれ自体「政治性」という一要素が分離不可能なものを語らざるを得ない状況となっているし、それはゲームに限らず例えば僕の好きなプロレスの世界も既にそうなっている。ワニウエイブ氏が繰り返し語るように「政治性を完全に無視した状態でゲームを楽しむ」ことはもはや不可能な時代となっている。もちろん政治性が一切ないゲームも数多く存在するが、その外側のゲーマーたちに目を当てればやはり政治性がしつこくまとわりつく。その意味では「開会式でゲーム音楽を流されたことに対する是非」を議論すること自体に何の問題もないわけである。そもそもゲームスパークもオリンピック開会式に関しては肯定、分析、批判と様々な角度からの記事を載せていて中立の立場を示している。むしろ日本においてこうした記事が珍しいものとされる現状の方が問題であり、「ゲームに政治を持ち込むな」という反応が多く出てしまうこの状況こそまだまだ日本における意識の低さを現しており最大の問題があるとしたらそこだろうと思う。

 

 以上、僕が氏の記事とそのリアクションについて一通り見た感想はここまでになるのでここで引き返して貰っても問題ない。以下は氏の記事で少し気になった部分について掘り下げて分析したもので、読まなくても問題ない。興味ある人はどうぞ。

 

 

 

 今回の氏の記事のメインとなる主張は「発言には必ず政治性が付与することを意識せよ」と「東京オリンピック開会式でのゲーム楽曲使用に肯定的な発言をした人間はその責任を意識せよ」だろう。(実は氏の記事に限らず、特に近年のリベラル言説やフィクションの中にはこうした「ノンポリは存在しない、政治的発言から誰も逃れることはできない」というテーマは多く語られる。大抵は「私は政治的な発言はしたくない」と発言した人間に「それ自体が政治的だよ」とリベラル側の人間が指摘するという構図で表現されがち)

 

 僕自身上記に書いた「政治性」そして「責任」というワードが強調されていると感じたわけだが、そもそもこの「政治性」「責任」とはなんだろうか? いざ言われてみるとピンとこない人も多いのではないか、またそれゆえに「なんか知らんけど開会式のゲーム楽曲入場をネタにツイートしただけでめっちゃ怒られてるんやが」って思った人も多いのではないだろうか。さらに言えば批判意見の根拠も恐らく「なんか知らん奴からめっちゃ怒られてムカつくわ」とかその辺なのかもしれない。

 

とりえあえずweblio辞書でググる(「政治性」だと「政治」+「性」として説明されなかったので「政治的」にした)

せいじ‐てき〔セイヂ‐〕【政治的】

形動

 政治に関するさま。「政治的な問題

 理屈の上だけでなく、現実即して判断するさま。「政治的な解決

 駆け引き巧みになされるさま。「政治的な手腕がある」

 

そもそも政治の意味は

 

せい‐じ〔‐ヂ〕【政治】

 主権者が、領土人民を治めること。まつりごと

 ある社会対立利害調整して社会全体統合するとともに社会意思決定行い、これを実現する作用

 

 文脈的に考えると「政治性を意識せよ」とは「ある社会の対立や利害を調整して社会全体を統合するとともに、社会の意思決定を行い、これを実現する作用について常に考えるべき」という意味になる。恐らくワニウエイブ氏の使ってる政治性/政治的の意味はこれで合ってるだろう。ざっくり言うと「お前の発言は世の中を良くするか悪くするかに関わるから注意しろ」という事だ。本当か?

 だが確かにその意味では氏がオタクやゲームクリエイターが開会式のゲーム楽曲使用について無邪気なまでに盛り上がったのを批判する意図はわかる。特に有名人ともなれば発言の影響力は無視できないし、一般市民であっても多くが同じ意見を言えばそれに世論がムードとして引きずられる可能性はあるだろう(ツイッターがどこまで世論を形成するかは意見が分かれる所だが)。オリンピックがいかにコロナ禍の日本を圧迫し犠牲者を出したうえで開催されたものかは今更語るまでもない。そして今後オリンピックの影響でコロナ感染者が増えるのは間違いないと思われるこの状況でオリンピックに関して肯定的な発言をするのは「私はコロナ感染者やコロナ禍で職を失った人々、そして日々現場で地獄のような現場にいる医療従事者を踏み台にしてスポーツ観戦を娯楽として楽しみます」と宣言するに等しい、と言われたらその通りだろう。実際氏の記事にもこう書かれている、

 

それでもオリンピックを楽しむというならそれは一つの考え方だろうが、もし死者数が増えたり、デルタ株が蔓延したりした場合には(そうなってもおかしくない状況だ)その責任の一端を負うということだ。

 

 人によっては「それって、一回でもオリンピックに好感を抱いたり競技を見てしまったらコロナ禍で死んだ人について「お前のせいだ」という責任を負わされる……ってコト?」と言いたくなるかもしれないが氏は遠回りだがそう断言している。恐らくここが批判意見が集中する最大の要因だろう。誰だって責任は負いたくない。

 

 では仮に氏の言うように「この状況下でオリンピックを肯定したり反対を表明しなかったことでその後に発生した被害の責任を負う」と仮定した場合、一体どんな責任が待っているのだろうか。

 

答えは「ない」

 

 政治や政策について具体的な権限と責任を持つのはどうあれ基本的には政治家であり、仮にそれに明確な形で加担しその結果最悪の時代が発生したところで市民が法的に例えば罰金とか職場の解雇とか禁固刑にさせられることはまずない……はず。(まあそれを言い出したらそもそも肝心の政治家が責任を取ってないという問題があるが)もちろん程度問題はあるだろうが、少なくとも現状ではゲーム楽曲に喜ぶくらいでそこまでにはならないだろう。なったら怖。結局これはワニウエイブ氏や意見を同じする者が自身の意見から定義した「責任をもつ『べき』」論であってそこに具体的な責任が課されるなんてことはないという事だし、そもそも氏が恐らく暗に定義する責任も「罪悪感をもってして反省し今からオリンピック反対派に転向する事を求める」くらいのものだろう。つまりお願いだ。お願いである以上それがどれだけ重要で聞かなかったことで自分や他人の人生が台無しになるレベルのものだったとしても、それでも「聞かない」という選択肢はありそれに対して別に責任を負う必要はない。

 

 で結局何が言いたいかと言うと、結局この記事はワニウエイブ氏の記事になんかモノ申したい人間(僕含む)に向けたもので、氏の記事を紐解くと一見オリンピックをちょっとでも肯定するとめちゃくちゃ罪に問われる気になるが実際は別にそうではないのでそのことについてはそこまで気にしなくていいだろ、という事を伝えたかったである。なぜこんなことを言うのかと言えば氏に対する批判の多くはその「オリンピックに加担してしまった罪悪感」がベースなように感じるからだ。それに対しては「いや影響力小さい分責任も小さいから気にすんな」と言いたい。反論の一つに「五輪を楽しむことと批判することは矛盾しない」とあるが、別にそんな言い訳しなくとも堂々と五輪のスーパープレー動画をRTしてすぐ菅総理の発言をRTしても別に逮捕なんかされないのだ。もしかしたら白い目で見られるかもしれないがそれだけだ、皮肉ではなく純粋にやればいい。

 およそ社会運動に積極的な人間はそうじゃない人たちに厳しめになりがちで、つい「お前たち全員がオレらと同じテンションで参加してくれたら世の中変わるのに!」と思いがちである。その通りだが別にそれ全てに加担しなくても生きてく上で(今のところはまだ)問題はない、と思ってもいいはずだ。

 とにかくあの記事にイラっときた人間は落ち着け、深呼吸し、そしてついでに「自分はどう振舞うべきか?」を今一度考えて行動すればよい。不必要に罪悪感を持つべきではない、いや持っても良いのだがそれが自己防衛に走ってはならない。自己防衛的にツイッターを見るとどうせもへもへとか太田区議員みたいなあの辺の都合の良いツイートを盲信してしまうだろう。

 僕は無意味な罪悪感有害なポジティブ(後者で言うなら「オリンピック始まった以上は選手を応援しよう」というアレ)もダメだと思う。そうではなく、我々が影響力の少ないものの影響力そのものは確かに存在する一市民であるなら、その立場から何ができるか何をやるかどこまでやるかを自分の判断と考えのものトライアルアンドエラーを繰り返していけば良いと思う。Z世代や意識高い人から「そんな甘ったれた考えと行動でいいのか?」と言われたら僕は「現状それで良い」と答える。それはウソで「いやすいません、考えを改めます」と言う。

 

 ほかにも言いたいことはあるがとりあえず今日はここまでとする。以上。